他力門と美
法然上人の御影を編むに際して、私は再び他力門のことを考え、その宗旨
と美の問題との関係を想う。幾度かこのことに就いて書きはしたが、もう一
度想を練りたい。
不思議だが美の聖典はまだ一度も編まれたことがない。美の「論語」があっ
たらどんなによいであろう。美の「ヨハネ伝」があったらどんなに役立つで
あろう。美の「維摩経」があったらどんなに有難いことか。私は時々そう想
う。善と真と聖との世界に、あれほど優れた経典が数々あるのに、どうして
か美に就いては何も典拠となるものがない。不思議なくらい美に就いての聖
い文字は少ない。
だが美の神秘を探ねる時、私は周囲を見廻して、まがいもない事実に出会
う。別に美の経文とてはないが、聖者達が書き遺してくれた経文こそは、何
より美の経文なのだと。善も聖も美も結極一つである。現れ方が異なるとし
ても、道は一つなのである。だから聖に就いての深い言葉は又美に対しても
当てはまるのである。私達はどんな言葉で美を説くにしても、聖典以上の言
葉でその真意を述べることは出来ない。そこには美に就いての金言が無数に
潜む。
法然上人の言葉だとて、何も浄土の一門にのみ当てはまるものだとは思え
ぬ。直に美への教えだと見て間違いはない。縁の遠いと思われる工芸の部門
に及んでも、益々その教えが活きるのを感じる。私は美学者達が、彼等の知
識を過信せずに、更に真理を深めるために、敬虔深くもろもろの教典を繙く
ことを勧める。
美への道は幾筋もあろう。丁度富嶽に登るのに幾つかの口があるのと同じ
である。頂きで会うために、各々の境遇に順じて、異なる登り口が用意され
ているのだと思われる。だから或る者には他力の教えが適い、或る者には自
力の教えが合う。或る者には顕教がよく、或る者には密教が親しいであろう。
様々な形の美のために、様々な教典が用意されているのである。意に適うそ
れ等の一つを選んで、己れの師と仰げばよい。美の問題、わけても工芸の問
題に触れる時、私は他力の一門に惹かれぬわけにゆかぬ。法然上人や親鸞上
人の遺訓が今更輝いて見える。
しかしこうも考えられるであろう。美への道は詮ずるに芸道である。芸道
であるからには腕を琢き力を致さねばならぬ。怠っては道を極めることが出
来ぬ。そうだとすると、美への道は自力門ではないか。自から芸術家と名の
るほどの人達は、是非ともこの門をくぐらねばならぬ。それが天命だとも云
える。ここでは芸道は禅道と何等変わる所があるまい。日々易からぬ公案を
抱く身である。それに答え得ない者は芸に徹することは出来ぬ。道は難行な
のである。しかし一度意識の法衣を着たからには、この法門の行者にならね
ばならぬ。
だが芸道に志す凡ての者にこの道を歩かせることが出来るであろうか。果
たして誰もこの難行に堪え得るであろうか。清教徒の身になれば、この世の
凡ての人間を、善人にさせようとあせるかも知れぬ。しかしそれが無理な註
文だということに早晩気づくであろう。誰にも一様に善人に成り得る力が与
えられているのではない。そう成り得ない運命に沈む者が無数にいる。幾許
かの人だけが自力門に励んで道徳家になり得るに過ぎない。残る多くの者は、
かかる力を有たないのである。同じように誰をも自覚ある芸術家にさせるこ
とは出来ない。宿命的にそんな資格を有たない者がいることを忘れてはなら
ない。自力の一門だけでは救いは来ない。どうしても他力の易行道があって、
無力な者までが救われるに至らねばならぬ。美の国にも浄土の法門が叫ばれ
てよい。
無学な職人達に美を解せよというのは無理ではないか。幸にも知識の道が
美への一途ではない。寧ろ無学であるその宿命に、道が見出せるなら素晴ら
しいではないか。法然上人が有難いのは、その福音を宣べたからである。智
慧などなくとも、自分が小さくとも、絶大なものに依りかかるなら、助けら
れて救いは果たされるのだと契っている。夢かと思われるような音づれでは
ないか。しかし偽りは含まれてはいない。無数の美しいものが一文不知の者
達から生まれたことを吾々は熟知している。そうしてこの世の最も美しい名
器は、殆どその凡てと云いたいほど、無学な彼等が作ったのであることを否
定することが出来ない。善人が往生出来るなら、況んや悪人をやと云った親
鸞上人の言葉には、少しの誇張も含まれてはいない。美の世界では殊更に他
力の功徳が説かれてよい。
美のことに携わるほどの者は、よくよくこの教えを噛み緊めたい。僅かば
かりの自力の行者が、優れたものを作ったとて、世界は美で救われはしない。
どうあっても智に才に財に力を有たない工人達が、そのままで優れた品物を
生めるように準備せねばならない。それにはそのままで救われるという教が、
充分に説かれ又信ぜられねばならない。振り返ると無数の事実が、この真理
を保障してくれる。どんな人間がどんなに何を作っても、みんな美しくなっ
たという場合は、夢物語では決してない。そういう事情に浸ってこそ、もの
が誤りを犯さずにすむのである。私達は無学な工人達の存在を蔑むわけにゆ
かない。彼等があってこそ、驚くべき美の世界が実現されるのである。今彼
等が殆ど何も為し得ないのは、吾々が彼等を見下すからである。そうして彼
等のために用意された救いの道を破ったからである。他力の法門に就いて真
に想いを廻らす者がいないからである。今美の世界に一法然がいてくれたな
ら、どんなに世界が美しさに潤うであろう。彼は誰よりも貧しい者、無学な
者に話しかけたではないか。
読者は私と同じ経験を嘗められたであろうか。街に出れば無数の品物が店
店に並んでいる。だがどれもこれも末世の醜さを映すに過ぎない。こういう
事情をどうしたらよいか。その中から一割はおろか、恐らく五分だって正し
い品物を拾うことが出来ない。誰を咎めたらよいのか。目をつぶって通り過
ぎたい感じさえする。だが作る者にも使う者にも、別に罪はない。公衆が美
の何たるかを知らないのは、昔も今も変わりはない。昔はそれでいて良い品
が出来たが、今は無数に醜く不正な品物が作られて了う。このことをどうし
たらよいか。
望みがないであろうか。彼等に美しいものを作れと望めばこそ、絶望が来
るのである。彼等は何も識らずに醜いものを作っているのである。それなら
同じように識らずして美しいものを作れる折りがあるとも云えよう。実際こ
の世の最も美しいものの数々は、識って作られたのでは決してない。自から
に力量があって生まれたものとは甚だ違う。力量が無いままに、他から助け
られて救われているのである。しかじかの資格が無くともよい。否、無いか
らこそよいという逆理に、真理があるのではないか。他力門はこのことを深
く説くのである。若し他力に凡てが便るとしたら、立ち所に品物は甦ってく
るであろう。醜いままに沈んでゆくのは、他力の道が廃れているからである。
美の道には自力道のほかに、どうあっても他力道が建てられねばならぬ。
人々を偉くすることで世を救おうというのは、まだ充分な教えではない。偉
くないままに救おうという教えこそ、もっと強く宣べられねばならない。こ
の秘義さえ分かればこの世はどんなに明るくなるであろう。限りなく群がる
醜いものを眺めて、私は心にこう云う。「暫くそのままでよい。何も美しい
ものになろうと苦しまなくともよい。自分の力だけではどうしても醜くなる
ような命数にあるのだから、そのままで救い出される道を考えよう。三部経
を始め、浄土門の幾多の坊さん達はその真理を教えてくれているのだ。昔の
優れた器物は、この教えが宣べる通りに偉くないままに救われて見事な姿に
なっているのだ。嘗てそうであったなら今後だとて道に変わりはあるまい。
今出来るものでも美しいものは、殆ど凡て他力の道で救われているのだ。資
格があって救われているのではなく、資格がないままに救われているのだ。
偉くなろうとしたり、偉い身振りをしたりするもので、救われているものは
先づないのだ。だがこのことは知ってよい、救われているものを見ると、ど
れも皆謙遜深い性質が見える。多くの聖人達が信心の道を尊ばれたのは深い
理由があるのだ。謙遜と信心とは同じ心なのだ。」
先日私は沖縄に渡って色々忘れ難い場面に出会った。その土地では木綿で
も絹でも麻でも芭蕉でも絣を織るが、昔乍らの手法に便るものには一つとし
て醜いものがないのだ。(醜いものがあれば近頃の新柄や、機械で試みられ
た進歩を誇るものに限られているのだ)。だが織る人達は何も美しさに就い
て意識しているわけではない。丁度内地の工人達が醜さに就いて意識する所
がないのと変わりはない。だが一方は美しいものだけを生み、一方がとかく
醜いものを作るとはどういうわけか。不思議は他力の道を歩むかどうかに潜
んでいるのだ。沖縄の人達は迷わずに伝統に便り、天然に便る。手法でも材
料でも染色でも織柄でもよく昔を守る。自然から与えられたもの、祖先から
受け継いだもの、それに委せて仕事をする。そうして風習のままに正直に真
面目に仕事をする。誰も彼もこのことでは一様である。だから誰が作るとい
うことはない。誰も自分を語りはしない。謂わばそれぞれに念仏の信徒なの
だ。頼み委せた織物である。誤りが無く危なげな所がなく、どれもこれも救
われているのは他力の恵みである。仮りにそれ等の恵みを見棄てて、自から
を出したり新しさを追ったりしたとしたら、立ち所に踏みはづすであろう。
彼等は自力で立つ資格がないからである。だが自からを誇らないが故に、自
からを越えた仕事をする。沖縄の絣は救われる事情の中で作られているので
ある。どれもこれも、とりどりに美しいのは当然である。それ等の織物には
罪を見出すことが出来ない。神に嘉された仕事、そう讃えてよいではないか。
他力の一路が彼等をここに導いたのである。内地の近頃の品にろくなのがな
いのは、誤った自力、小さな自力がはびこるからである。救いから遠い境地
で美を栄えしめることは出来ない。
他力の法門は美の世界に於いても樹立されねばならなぬ。
(打ち込み人 K.TANT)
【所載:『工芸』 95号 昭和14年4月】
(出典:新装・柳宗悦選集 第7巻『民と美』春秋社 初版1972年)
(EOF)
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